人間はなにがしたいのか? 〜厨房、かく語りき〜

 犬に餌をやる。いつもと違うハムなどをやると喜ぶのだが、一瞬でぺろりと食べてしまう。すぐに消えてしまう。これが人間なら、もうちょっと味わって食べたり、少しずつ食べるだろう。
 長期的にみれば、人間もその犬と同じようなことをしている。簡単にいうと、環境破壊とか。
また、アメリカの戦争なども、ある種、大統領の気持ちによって国全体が操られてるわけで、もし、心理学者がカウンセリングしたら、別の方向に動くかもしれない。大統領といえども一人のただの人間であり、しょせん、その程度のことなのかもしれない。

 おそらく、人類には目的があたえられていない。
ほとんどの人は、投げ出された世界で、それぞれの文化のなかで価値観を身につけ、そのゲームをしている。ドラマを本気になって演じきっている。共同幻想論、ゴフマンの行為と演技。
現代の都会人は、金を稼ぎ、娯楽に興じ、なかには社会のために良いことをする。
いったいなにをしているのだろうか。
 ここまで読んで、こう思う人もいる。「まるで、中学生が言いそうな話だな。」確かに。しかし、中学生が言いそうなことだから、とるにたらないと投げ捨てるのは、ゲームの続きをしたいというだけのことである。こういう話は、ゲームの本筋とは関係ないから、読んでもレベルアップするわけでもないし、ゴールドが儲かるわけでもないから。もしくは、中学生がいいそうな、こういう話をバカにすることで、こういう話の上位に位置すると思い、ファッション的にそういうスタイルをとるとか。
 「いやいや、そういうことではなくて、俺はもっと普通に思想書とか読んでるし、こんな陳腐で、俺がもう乗り越えた青臭い話はつまらないんだよw」というなら、それはもう、ふつうにあなたのほうが分かってらっしゃるので、今更、こんなものを読まなくてもいいと思う。私は、本を読まなくなったので、自分的には、こうやって一人哲学をするだけでも楽しいのです、というしかない。
 ああ、本を読まないのは、本当にいけいないことだ。本を読まずに考えることは、本当に効率が悪く、時間=人生をムダにしているような気がする。

 だが、ほとんどの人は、視野狭窄であり、先ほどの犬である。もちろん、生活者として成り立つこと(労働、ビジネス)も大切である、楽しむこと(娯楽、感動)も大切である。だが、もっと哲学というものが一般的であっていいと思う。哲学は、ゲームの外側についての話であり、ゲームそのものの仕組みの仕組みなんだと思う。

 人間一人一人には、人生の目的がある。だが、人類全体には目的がないのだ。これに俺は愕然とする。恥ずかしいがらずに、ガイア思想のように、人類全体を一つの人間と見てみよう。そうすると、一人一人の人間たる細胞は、それぞれの意思・目的、つまりプログラムを持っているが、それを全体とした人類という一個の人間身体は、目的を持っていないのである。これは、つまり人類とは今だ、単なる白痴、もしくは切り刻まれた肉片のようなものではないのか。このニヒリズム。無意味さ。一人一人の人間は、意味に満ちているが、人類という全体は、まったく意味のないからっぽの中に放り出されている。このことを肝に銘じてほしい。
(こういう話するのって、怖い話を聞いて人にも言いたくなる気持ちかな・・)

  • 人の日記を読んだ。面白い。自分はなんてつまらないことを書いてるのだろうと思う。やはり本など読まずに生きるのは、ダメだなと思う。ここで思った。人類は切り離されている。だが、自分を他者のなかに浸透させ、他者に自分を浸透させる、たとえば読書のような行為は、人間という孤独な細胞を少しでも、人類という一人の人間にするための助けになると思う。読み、そして書くという行為は、私の無意味を救うための、一つの手段となる。

 生きるとは、存在するということ。

 夢を持っている男を養う女の気持ちがわかる。俺もどちらかというと、夢や才能を持ってる女のほうが、なにかしてやりたいと思う。ただ、顔が可愛いというだけで、養いたいとか、そういうことは到底思わない。あほらしい。存在に個性がないのだ。養う、援助する切実さがないのだ。ましてや、ちょっと顔がいいことを理由にカモを見つけて売春結婚しようとする女は、本当に舐めてると思う。ただ可愛いだけのアホは、ふつうに飢え死にしてもいい。面食いというのは、他にものをしらないか、もしくは本当に女性の美しさが好きなんだなぁと思う。それは、映画や家具や小説が好きなのと同じように。趣味や価値観の問題である。